ÇHOMEつねひこ旅情編北京・モンゴル編

北京・モンゴル編

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1996年8月 北京経由でモンゴルを旅してきました。

名古屋から成田空港へ電車で向かったため、飛行機に乗り遅れそうになるという・・・慌ただしい旅の始まりでした。

北京へ

とりあえず、北京に行きました。
当時の北京は今でこそ大都会の王府井(わんふーちん)も道路も歩道も穴ぼこだらけ、老舗のデパート(昔の共産圏の品物のないデパート)が一軒、夜は現在のようにネオンなどなく、薄暗い街頭の下、夏だったので、上半身裸でタバコを吸い寛ぐ地元の人々(裸族)と一緒に街でだらだらしたり(暑いので皆だらだらしている)、北京動物園で暑さにやられて寝ているパンダ(正確にはパンダは夜行性なので、成都のパンダ研究所にいるパンダの子供たちは昼間から活発に動く!!必見です!)を観たり、餃子大王(数年前再訪時には健在であった故宮の近くの一等地にある安くてうまい餃子や)で餃子、いまや巨大チェーンで日本でも食べられる全聚徳烤鸭店や便宜坊烤鸭店で浴びるほど啤酒(ビール)を呑みながら一匹で1000円強(当時)の北京ダックを堪能したり、屋台で羊肉串を食べたりしながら、映画“ラストエンペラー”を観てからの悲願である故宮の玉座に座る野望は果たせませんでしたが・・・・(笑)愉しく過ごしました。

北京滞在中に万里の長城の一部で最も保存状態の良い八達嶺と明の十三陵にも行きました。
貧乏旅行のため、現地人の利用するバスで行ったのですが、当然エアコンがなく、帰り道に自然渋滞でバスが約2時間、全く動かなくなったときは暑さで死にそうでした・・・・

モンゴルの首都・ウランバートルへ

北京からウランバートルは空路を取りました。
ウランバートルに到着した我々が見たのは、旧共産圏の白く、何もない世界でした・・・・

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宿泊はフラワーホテルという日系のホテルにしました。
ガンバットさんという日本語を話す現地スタッフが“頑張って”おりましたが、残念ながら空回りしていました。
現在のモンゴルは一説によるとバブル状態で、銀行の利子も凄いとか・・・HISの経営するハーンバンクなんていうのもあります。
しかし当時は公共交通機関が首都のウランバートルでバスが一路線のみ、タクシーはなく、白タクが幅を利かせていました。
民族の英雄でありながら、共産体制化では禁忌であった為、期待したチンギス・カン(チンギス・ハーン、成吉思汗、Činggis Qan または Činggis Qa’an)グッズは殆ど全くといってよいほど存在せず、土産はウォッカと服(キン肉マンに出てくるモンゴルマンの着ているもの)を購入したぐらいです。
食事も到着当日のとある日本スーパーの経営する店の生茹でのボーズ(包子の一種)で典型的な食中毒症状を起こし、丸二日間二人で寝込みました・・・挙句の果てにホテルの水道が止まり・・・

何とか体調を建て直し、釣りバカ日誌の撮影にも協力した“モンニチツアーズ(おそらくモンニチ=蒙日だと思われる)”と契約して、しばらくゲルに住んで一日中馬で草原やゴビ砂漠を疾駆すべく、首都を出発しました。
出発当日、観光客を迎えにランクル等多くの日本製四駆が待機し、いやが上にも気分が高揚する中、我々を迎えに来たのは、明徳義塾と書かれたトレーナーを何故か裏返しに着た若いモンゴル人と見たことも聞いたこともない旧ソ連製のセダンでした。しかもスピードメーターは壊れ、燃料計も機能していません・・・嫌な予感は帰り道に的中しますが、気を取り直して出発です。

通訳兼ガイドとして、同行してくれたのはヒャンバーさんです。
実は彼との友情は現在まで継続しておりますが、普段はテニスのモンゴル代表で、同じモンゴル代表の選手(こちらの方が有望であったらしい・・・)であった奥さんを妊娠させてしまい、生まれてくる子供と生計を立てるために、明徳義塾でのテニス留学中に培った日本語を生かしてガイドのアルバイトをしていたそうです。
ちなみに、私がモンニチツアーズを訪れたとき、ナニワ金融道の“せんだずりじろう“に似た社長は御昼寝の真最中でした。
とりあえず放屁しながら眠そうに起きて来て、我々の話を聞いた後、一人35000円受け取り、どこかに電話をして又寝てしまいました。ちなみに、ヒャンバーさんに支払われたバイト料は10000円だったそうです。
社長は電話一本で差額の25000円儲けたようです。恐るべし・・・モンニチツアーズ!

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書いてみると踏んだりけったりのようですが、実際にゲルに住んで、近くで遊牧している遊牧民の家族から借りた馬(当時は遊牧民が子供たちの遊び相手になってくれるなら・・・大事な馬を貸してくれたのです。今はどうでしょう?資本主義国ではなんでも商売になってしまいますからね・・・)を子供たちと一緒に走らせると、それまでの苦労はすっかり忘れてしまいました。
彼らとただただ無心に草原やゴビ砂漠の入り口で馬を走らせ、モンゴル相撲?に興じるのは本当に愉しかった!
一度だけ、全力疾走している際に落馬の危機がありましたが・・・・

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それ以来、すっかり乗馬にはまってしまい、機会を見ては海外(主にアジア)を中心に馬に乗るようにしています。
ゲル滞在中に、悪天候でヘリが不時着し、お金持ちそうな一団が降りてきましたが、私の大好きな開高健の“国境の南
オーパ、オーパ!!モンゴル・中国篇”の写真を撮った高橋昇氏と俳優の小林薫氏でした。(注:私が大好きなのは開高健)

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本当に愉しい時間をゲルですごす事が出来ましたが、帰りはやはり苦難の道でした・・・草原のど真ん中、360度全く何も見えない所で車がエンスト、何とか走り出したのも、つかの間、パンク・・・
満身創痍の車でウランバートルに戻りました。

ヒャンバーさんと奥さんとウランバートル観光をした後、何故かトルコ料理(ヒャンバーさんの希望)を一緒に食べました。途中、車の後部座席に鎮座する活仏(元朝時代からモンゴルの主な宗教はチベット仏教の流派で、文化的にチベットとの関わりが深いが、シャーマニズムも存在する。)をみました。
一泊、フラワーホテルで英気を養い、養いすぎて翌朝、ヒャンバーさんが起こしてくれなかったら、完全に乗り遅れるところでしたが・・・苦笑・・・北京になんと35時間もかけて電車で戻りました。
夜中の国境で、電車は車輪の規格の違いのため、なかり長い時間停車し、車輪を取り替えます。
その間に、イミグレーションか税関なのかよく分かりませんが、国境の役人が車内で、パスポートチェックや荷物のチェックをします。
隣の部屋の仏像(当時のモンゴルでは、文化財、特に仏像など宗教色の強い物を海外に持ち出すのは厳禁であった。)を土産に買ったドイツ人は、どこかに連れて行かれ、戻ってきませんでした。

再び北京へ

北京に戻った我々は、田舎から大都会に来た気分で、精力的に観光をしました。
一度観てみたかった京劇=Chinese Operaも観劇出来ました。
当時の自分への御土産で一番気に入っていたのは、故宮で購入した清朝時代のRoyal Familyの写真を絵葉書にしたもので、西太后の写真も数点ありました。

大変充実した思い出に残る旅行でした。

吉田統彦拝

カンボジア編

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